撃っていいのは、討たれる覚悟のある奴だけだ

こんにちは、お久しぶりです

 

最近は読書もそこそこに、Apex LegendsというバトロワFPSにハマっていました

 

当初は週1回、せいぜい週3回くらいのペースで遊んでいたんですがだんだんとプレイ時間は増え・・・

 

11月17日現在のトータルプレイ時間は778時間

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ゲームに登録したのが1月31日なので11月17日現在で291日目=41週と4日

 

週に約19時間、1日平均で2.7時間はプレイしていることになります。

 

こうしてみるとまぁゲームが好きで趣味としている人なら理解できる数字かなとも思いますが

 

私が恐怖を感じたのは11月に入ってから2週間ほどの期間のことです

 

このとき私は1試合に2000ダメージ以上を記録することで得られる、俗にハンマーと呼ばれる称号(のようなもの)を手に入れるべくひたすらカジュアルマッチに潜っていました。

 

睡眠、風呂、食事以外はたぶんずっとApexをプレイしていたと思う。

 

具体的には次のようなスケジュール

 

13時頃起床(昼食は摂らない)→夕食の時間までひたすらプレイ(13時~18時)→夕食&風呂(18時~20時)→APEXコアタイム(20時~5時)→就寝(5時~13時)

 

このように1日14時間はやってました。2週間で196時間ですね

(一応言っておくと、ハンマー取得は決して難易度の高いものではありません、私が実力不足を数の力で補おうとした結果です。)

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ふとしたきっかけで発揮される諦めの悪さ、執着心が私の悪い癖で、ハンマーを取ると一旦決めてしまったが最期、達成するまで後戻りは許されませんでした。

 

ギャンブルとか向いてないですね。身が滅ぶまでやめられなくなるタイプ

 

 

その際お世話になったのが↓

 

 モンスターエナジー 500ml(本当に効く、1本で一晩中頭が冴えた状態を維持できました)

 

結果望みのものは手に入れたわけですが、いろいろと考えさせられました。

 

 

・2週間ゲームしかしていない

 

・自分で自分を制御できない感覚(途中で何度もやめようと思った)

 

ネトゲ廃人だった頃のフラッシュバック

 

 2週間ゲームしかしていないというのはかなり後悔しました。2週間あればもっといろいろなことができただろう。無論、これはゲームが基本的に生産性のない行為だという立場からの感想です。

 

「ゲームなんてくだらない。時間の無駄」

 

これ、誰しもが一度は言われた(聞いた)ことがあるセリフではないでしょうか。

 

実際、私は両親から何度も言われた記憶があります。

 

この言葉、言われた当時(ゲームに熱中する当事者だった時)は「面白いからいいんだ」とかいった開き直り、「ゲームからも得られる事はある」といった苦しい正当化、「人生そのものが無意味だ」といった論点ずらし、論理の飛躍をして誤魔化していた覚えがありますけど、今や自分も、ゲームを時間の無駄だと断じる側の人間になりつつあるわけですね。

 

多くの人にとって自分の人生、社会生活という主があって、それに対してゲームは従、単なる娯楽にすぎないわけですよね。だから主従が逆転してしまうのはおかしい、と。

 

もちろんゲームを主にすることもできるわけで、それがプロゲーマーやストリーマーといった人たちあるいは、経営や資産運用などによって盤石な基盤を持っている人たちですね

 

そうでない人間がゲームに依存するとどうなるか…

 

覚えていますか?

ja.wikipedia.org

 

農水省事務次官のエリート父(76)がニートの息子(44)の将来を憂慮して刺殺した事件

 

この息子、オンラインゲームの廃人として一部では有名で、定職にも就かず親の金で課金し、SNSでそのことを自慢していたそうです

 

この息子はゲームで生計を立てているわけでもないにもかかわらず生活の主をゲームにしていました。(親の財力によってそれが許されていた)

 

しかし、その結果どうなったか

 

実の父親に討たれてしまったわけです

 

賛否両論ありますが、私はこの父親の行動には肯定的です。

 

一説によるとこの父親は自暴自棄になった息子が無差別殺人事件などを起こすのではないかと危惧していたようです

 

「息子が本当の怪物になる前にせめてこの手で・・・」

 

親としての責務を立派に果たしたと言えるのではないでしょうか

 

なにが言いたいかというと、多くの人にとってゲームは自分が戦うべき土俵ではないわけです。

 

Apexで敵プレイヤーを撃つのは楽しいし、チャンピオンになるのは気持ちがいい。だからといってApex=ゲームに人生を捧げるような行為を続けていると、実の親に討たれる未来もあり得る

 

そう…撃っていいのは、討たれる覚悟のある奴だけなんです

 

結局、一般人でありながらゲームに依存するというのは、自尊心を満たすだけのむなしい作業を延々と続けるということを意味するんですね

 

人は自分自身の土俵で、戦うべき相手と向かい合わなければいけない

 

学生であれば勉学に励んで可能性を切り開く努力をするべきだし

 

社会人であっても豊かさを拡張するためにできる努力はいくらでもある

 

難しいのは、ゲームに依存する子供に出会ったとき、頭ごなしにゲームを否定しても響かないということですね

 

その意味で「ゲームなんてくだらない。時間の無駄」というセリフは真理であるものの言葉足らずであり、相手には響かない

 

私は以前2年ほどネトゲ廃人をやっていた経験があるのですが、改めてオンラインゲームには深入りするべきではないと思った次第でした。

ユ虐のすゝめ ヒトラーの反ユダヤ主義

イヴォンヌ・シラット(三ツ木道夫=大久保友博訳)『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』(白水社,2015)

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20世紀最大の独裁者、「アーリア人種」の信奉者。第三帝国による世界支配を夢見て世界に戦いを挑んだ男。

 

アドルフ・ヒトラー

 

彼はその強烈な優生思想のもと、ユダヤ人、障害者、犯罪者に至るまで、ありとあらゆる「不純物」を排除していった。

 

その中でも特に悪名高いのはホロコーストだろう

(holocaust(ホロコースト)=大虐殺、大破壊。Holocaustと固有名詞扱いされる場合はナチスによるユダヤ人大虐殺を指す。語源はギリシャ語 ὁλόκαυστος)

 

ヒトラーという名前を聞けば反ユダヤ主義ユダヤ人への迫害を真っ先に思い浮かべる人が多いのではないか。

 

実際、ヒトラー反ユダヤ主義を糧として大衆を扇動し、総統の地位に上りつめたといえる

 

ヒトラーは容赦のない読書によって自分自身の思想を確立していったが、その実態は様々な理論・哲学のモザイクだった。

 

エルンスト・ハンフシュテングルが述べるように、ヒトラーは「天才的思想を生み出すのでなく、むしろ天才的なバーテンダーだったのだ。彼は目の前にあったドイツの(伝統的な)成分を取り上げ、自家製の錬金術によって調合し、ドイツ人の口に合うカクテルに作り変えたのだ。

(『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.53)

 

そして実は、反ユダヤ主義のエッセンスは、カント、ヘーゲルヴァーグナーマルクスニーチェといったドイツの偉人たちの思想から抽出されたものだったのだ。

 

 

カント

真の知識には明白な証拠(evidence)が必要であり、証拠のないものは証明され得ず、存在しないというのが科学的な考え方である。

カントは理性を何よりも重視し、宗教も倫理も理性に適ったものでなければ無意味であると断じた。

つまり、経験的、直感的、慣習に従うのではなく、人々は自らの頭で考え、理性に従って生きなければならないのだと。

 

それゆえ、カントはユダヤ教を否定した。

 

原始的で理性に適わないことはなんであれカントを苛立たせ、ある古代宗教が彼の格好のターゲットとなった。ユダヤ教である。カントはこの宗教を進歩の遅れたものとみなし、ユダヤ人を迷信的で原始的、理性に適わない存在と呼んだのだった。この誹謗中傷はさらにひどくなる。宗教は理性の上に築かれねばならないのだから、ユダヤ教を宗教としてまったく否定するところまでカントは進んでしまう。宗教論である「単なる理性の限界内での宗教」(一九七三)で彼はこう書く。「ユダヤの宗教というのは実際のところ宗教などではまったくなく、ただひと塊の一種族の人間たちからなる協同体でしかない」

(『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.67)

 

カントによるとユダヤ人は倫理的なものであることもできないらしい

なぜなら、倫理性の基本は理性であり、ユダヤ人は理性を持たないがゆえに倫理を持つこともできないからだ。

 

カントは、「ユダヤ人の多くは、自分たちが住む国の中でユダヤ教という迷信によって団結している。かれらは国に帰属することなく、国民を欺いて利益を得る高利貸しの詐欺師集団なのだ。」と痛烈に批判する

 

啓蒙主義思潮の最大の思想家、最大の道徳家として名声を獲得していたカントがユダヤ人を潜在的犯罪者として扱うということがどういうことなのかは火を見るよりも明らかだろう。

 

 

フィヒテ

 

フィヒテはカントのあと、ドイツ観念論の哲学者として評価された。

ドイツ人の優越、ドイツ人の純粋性保持を訴えるナショナリストで、フィヒテもまたユダヤ教ユダヤ的な考え方を否定した。

 

「私はユダヤ人に公民としての権利を与える方法がまったく見当たらない。ひょっとして誰かが連中の頭を全部叩き切って、新しいのと取り替えるというのなら別だ。その中にはユダヤ的な考えがひとかけらもないような新しい頭だ。」

 (『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.70)

 

 

 ヘーゲル

 

ヘーゲルはカントの思想を発展させ、理性は人類にとっての究極目標であるから理性による世界が実現されるべきだと説いた。

そして、カントと同様にユダヤ教を理性的ではないもの扱いした。

 

「理性の神殿はソロモンの神殿よりはるかに高く聳える。[…]理性に適うよう建設されており、ユダヤ人がソロモンを手本にして建設したのとは全く違う方法なのだ」

「他の神々に寛容になれないのが、ユダヤ人だけの民族的な神なのだ。この民族の厳しい神はそれほど嫉妬深い」

(『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.71)

 

 

ショーペンハウアー 

 

永遠のユダヤ人アハスフェルスは、ユダヤ民族全体の人格化にほかならない。[…]どこをも家とすることなく、しかもどこをも異郷とすることなく、[…]類をみない頑固さでその国民性を主張し、他民族とその土地に寄生しているが、[…]この悲喜劇(的な奇態な制度全体)に(世にもなごやかな行き方で)引導を渡す最良の方法は、ユダヤ教徒キリスト教徒間の結婚をゆるすこと、[…]こうして百年以上もたてば、[…]アハスフェルスも埋葬されることになって選ばれた民自身が、どこにそういうものがいたか、わからなくなるだろう。[…]彼らはいつまでたっても異質の、東洋民族である。

(『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.72)

 

ユダヤ人は強固な選民思想によってどの国でもユダヤ人同士で民族的団結をしている。

愛国精神など持たず、利己的な目的のために寄生しているのだと。

ユダヤ人特有のやっかいさを解消するために、キリスト教と同化してしまえばいいと言っている。

 

 

ヴァーグナー 

 

彼は、ユダヤ人は「寄食者であり寄生者」であり、ドイツの文化や経済生活を牛耳っている、と確信していた。「私には私の〈ドイツ〉が、永久に、朽ちてしまうのがわかる。[…]私の芸術上の理想はドイツとともに興り、ともに滅びる。[…]ドイツ諸侯の没落のあとに来るもの、それはユダヤ的ドイツ人の魂」、「呪われたユダヤ人ども」だ。

(『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.73)

 

リヒャルト・ヴァーグナーといえば、ヒトラーが政治家を志す前、すなわち美大を目指していた時からヒトラーにとってのヒーローであり、憧れの人物だった。

ヒトラーは唯一の親友クビツェクとともに足しげく劇場に通っていたようだ。

もちろんヒトラーが総統になってからもヴァーグナーの音楽を愛し続けた。

ヴァーグナーは筋金入りの反ユダヤ主義者だったというから、ヒトラーがその影響を受けたと考えるのは必然だろう。

 

ニーチェ

 

ニーチェヒトラーに最も影響を与えた哲学者の一人だと言われる。

反ユダヤ主義、戦争賛美、反民主主義、超人(Übermensch)思想、のちのヒトラーナチスの思想の骨子となるものが多分に含まれていた。

 

人種改良の可能性、支配者層の教育可能性、「大地の主人」「芸術家として人間自体に働きかける暴君」などの可能性を論じたメモが、そこには含まれていた。さらに「より強い人間を必要とする条件を作り出す必要性、その強い人間というのは自分の役割のために、心身の鍛錬強化を必要とする人間だが、そうした必要性」に関するノートもあった。この老婦人エリーザベトが、老眼鏡と夫人帽を身に着けて、ヒトラーを文書館に迎え入れるのは一九三四年八月であり、おそらくこの時にヒトラーはこのノートを見せられたのだった。

(『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.73)

 

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ニーチェの死後、妹のエリーザベトは兄の文書館を発展させ、生前兄が残したメモやノートを編集し、公刊した。

単なるメモ、アイディアにすぎないものも「ニーチェの思想」としてまとめ上げた。

向上心を持って国家に奉仕する人間を育てることを必要とし、民主主義を否定し、一握りの偉大でより優れた人間が統治するべきだという構想はナチスの政策と符合する。

 

 また、ニーチェといえば「神は死んだ」という言葉とともにニヒリズムの元祖として有名だが、佐藤優ヒトラーに、ニーチェとは異なる文脈でのニヒリズムを指摘する。

 

ヒトラーは日常的に調理法や食べる量にもすごく気を使っていて、太らないように心がけていました。でも、大好物はチョコレートケーキなんですよね。彼は、いよいよベルリン陥落という時期に至って、禁欲主義をなげうち、チョコレートケーキをむしゃむしゃ食べるようになりました。これは『ヒトラー 最期の12日間』にあります。エヴァ・ブラウンと結婚するからみんな集まれと言ってみたり、ケーキをむさぼり食ったり、けっこう清々しい感じで最期の日々を送っている。どうしてだと思う?「やっぱり、ドイツ民族、アーリア人種は弱かったんだな。ユダヤ人の方がしぶとかったなあ。スラブ人も強かったよなあ。結局、われわれは滅亡する人種だったんだ。あっはっは、まあ、そういうことだ」っていう心境ですよ。適者生存とか自己責任といった社会進化論的な立場を捨てていなくて、「おれは負け組だったんだ。気付かなかったけどな」という思いだったでしょう。

(『この不寛容の時代に ヒトラー『わが闘争』を読む』P.229)

 

これは第二次世界大戦末期、連合軍が目前に迫ってくる中、ベルリンの総統地下壕で敗北を確信し、死を決意したヒトラーの描写。

 

「結局、自分の信じたものは虚構だった。」

「空虚なものの上に立っていた自分もまた空虚な存在だったのだ。」

 

と理解し、「意志の力」を信じていたヒトラーが意志を捨てて気の赴くままに最期の時を過ごすわけだ。

 

 

ヘッケル

 

19世紀はダーウィンの時代だった。

動物学者にして社会哲学者、エルンスト・ヘッケルはドイツ人にとってのダーウィンを自認し、「社会進化論」を提唱した。

 

ヘッケルは「自然こそが神」だと考え、自然を崇拝し、自然による競争、適者生存が最良の結果をもたらすのだと信じた。

 

汎ヨーロッパ「一元論者連盟」を創設し、ヘッケルはこう論じた。人間は生物学の法則によって統治されるべきである、と。人種の純粋性に関する強迫観念はどんどん膨らんでいき、ヘッケルはアーリア人の強さを守るため、優生学を提案する。彼が説き勧めた生物学に社会が従わなければ、その社会が弱体化してしまう。病人の寿命を長引かせるために何がしかの薬を使うと、それがかえって自然淘汰を妨げることになる、とヘッケルは唱える。下層民、病人、障害者、乞食、ホームレス、犯罪者などは、近代の医薬品や生殖の権利を与えられるべきではない、というのだ。その上、これらの弱者グループは種を堕落させていき、適者生存組には脅威となる。それゆえ、彼は集団的安楽死を説く。彼の言葉で言えば、「悪からの救済は、痛みがなく即効性のある毒物によって遂行されるべきだ」と。

 (『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』P.90)

 

 

ヘッケルの思想はある意味めちゃくちゃに面白い。

 

「障害者、乞食、犯罪者などは邪魔だ!安楽死させてしまえ!」

 

というようなことを「ドイツのダーウィン」が大真面目に主張しているというわけ

不謹慎ながら、想像したら笑ってしまう

 

さらにヘッケルは、古代ギリシアの軍事国家スパルタを称賛する

 

ヘッケルは言う、

 

「なぜスパルタが成功したのか?」

「スパルタは”完璧なまでに健康で強い子供たち”以外を抹殺し、常に優れた強さを持った人間だけの状態を維持していたからだ」

「ドイツもスパルタに見習うべきだ」

「奇形児や病気の子供を殺すことは、殺す側殺される側の双方にとって有益な行為なのだから」

 

 

 

 

こうして見てみると、反ユダヤ主義は決してヒトラーナチスだけのものではなかったことが分かる。

当時のドイツには反ユダヤ主義や優生思想がは少なからず影響力を持っていたようだ。アドルフ・ヒトラーという怪物はそのような時代にあって天才的な「錬金術」を駆使し、ドイツ国民をまとめあげていったのだろう。

第一次世界大戦の戦犯処罰構想 連合国とドイツ

こんにちは、ふじさきちひろです

 

第二次世界大戦後の戦犯処罰の原型となった、パリ講和会議における戦犯処罰構想とその顛末について書きます

 

 

 

第一節 第一次世界大戦と戦犯処罰構想

 

そもそも東京裁判の構想は、いかにして生まれたのであろうか。この素朴な問いの中には、なぜ政軍の指導者を裁こうとしたのか、なぜ国際裁判という形式をとり、軍事裁判なのに非軍事判事がいるのか、なぜ伝統的な交戦法違反だけでなく戦争開始に責任を追及したのか、それは伝統的な戦犯裁判といかなる関係のあるのか等々の問題が含まれる。

(P.31)

 

第二次世界大戦後に実施された戦犯裁判は二つ

 

・ドイツを対象としたニュルンベルク裁判

・日本を対象とした東京裁判

 

だが、そもそも、大戦中における連合国の戦争犯罪処罰計画はドイツを主要対象としていた。

 ゆえに、東京裁判の成立過程を追うためにはまず、連合国の対独政策を検討する必要がある。

さらに言えば、第一次世界大戦後の戦犯裁判構想まで遡る必要がある。

 

まずは、伝統的な戦争犯罪と、第二次世界大戦後に登場した「新しい」戦争犯罪について。

 

 

伝統的な戦争犯罪とは

・戦闘員による戦争の法規および慣例の違反行為(交戦法違反行為)

・一般住民の武力による敵対行為、戦時反逆

などを指す

 

交戦法違反行為というのは東京裁判における「通例の戦争犯罪 conventional war crimes」(B級犯罪)にあたる

 

交戦国はこういった違反者を捕らえた場合、戦闘終了時までに行為者個人を自国法に基づき処罰することが国際慣習法上認められていた。 

 

第二次世界大戦以前の主要な戦争法規としては

 

・一九〇七年のハーグ諸条約

・一九二九年のジュネーブ諸条約

 

などが挙げられる

 

 

第二次世界大戦後の戦犯裁判では

・戦闘終了後に本格的な戦犯裁判を開始した

戦勝国が、戦犯容疑者の引き渡しを敗戦国に要求した

・敗戦国の指導者に対して交戦法違反の責任を追及した

 

点で従前の戦犯裁判とは相違があった

 

それに加えて

 

「人道に対する罪 crimes against humanity」(C級犯罪)

「平和に対する罪 crimes against peace」(A級犯罪)

 

という「新しい」犯罪区分によって戦争犯罪の範囲が著しく拡大した

 

(罪の重い順にA級,B級,C級と分けられていたというのはよくある誤解で、単純に性質の違いによる分類である)

 

このうち「人道に対する罪」はナチスによるユダヤ人迫害、大量虐殺を想定して設置された。

これは、従来の交戦法では自国民等への行為や戦前の行為を補足することができなかったため、伝統的な交戦法の欠缺を補うという意義があった。

 

そして、東京裁判批判の主要な論点の一つになってきたのが3つ目の、「平和に対する罪」である

 

しかし、この「平和に対する罪」は

 

第二次世界大戦当時に侵略戦争が犯罪として認められていたのか

国際法上、国家行為の責任について国家機関としての個人に刑事制裁を加えることができるのか

 

この二つの問題点がゆえ、事後法の遡及的適用にあたるのではないかと言われ続けてきたのである。

 

 

戦争の犯罪化

戦争犯罪、つまり、侵略戦争の法的責任を追及しようという発想が新しいものかというとそうではない。

そいういった発想自体は紀元前から存在した

 

スパルタ王アルキダモス二世が「先んじて侵したるかれらを懲罰し、法の裁きをもって報復をとげんと願うわれらの心情を恕したまえ」と祈りを捧げたように、「文明」的応報願望は古くから人間性に内在していたのである。

(P.35)

 

しかし、近代においてはオット・フォン・ビスマルクに代表されるように、国際関係を権力闘争の場と捉える現実政治の理念が支配的だった。

そこでは戦争も、諸国家間の利害を調整するための超法規的手段として容認されていた。

つまり、一八九九年および一九〇七年のハーグ平和会議における主要な関心も、戦争開始の正統性ではなく戦争の実施方法の法的規制についてだったのである。

 

国家間の利害調整をはかるための「手段」として戦争は選択肢の一つだったのである

 

 

ところが、第一次世界大戦を経て、不当な戦争そのものを違法化しようという動きがでてくる。

戦争の規模拡大、被害増大も一因だったが、総力戦体制のもとで行われる戦争では、自分たちは正義で相手は悪であり、正義が勝った暁には悪に罪を償わせなければならないという大義名分があったためである。

 

政府は自国民、国際世論に向けて「相手国は極悪非道な無法国家であり、我々は正義と平和のために戦わなければならない」という旨を喧伝し、煽りまくるのである。

戦後、戦勝国の世論が報復を熱望するのは当然のことと言えよう!

 

 

 

それでは第一次世界大戦後の講和会議で実際に何が起きたのか。

第一次世界大戦はドイツと同盟国の敗戦で終結したが、パリ講和会議では

 

・ドイツへの報復を熱望する自国の世論を背景に、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世の開戦責任追及を主張する英仏

 

・他国の指導者個人に国際法上の刑罰を下そうとすることは、主権国家の平等に反するとして皇帝訴追に反対するアメリ

 

とで対立。

結局、前ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世を「国際道義と条約の神聖を害する最高度の犯罪」について、合衆国、イギリス、フランス、イタリア、日本からなる「特別裁判所」に起訴するという形で決着がついた。

 

ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーは、連合国が「邪悪」なドイツに「戦争責任」を負わせ、峻厳な講和を強いることを危惧していた。

また、休戦以来、勝者におもねって戦争責任の詮索に熱中するドイツの平和主義者たちを、卑屈で「品位」に欠ける「政治的・社会的マゾヒズム」の体現者であると激越に批判した。ドイツ人の自尊心や名誉が消滅し、救いのない屈辱感だけが残ることを何よりも恐れたためだったという。

 

周知のとおり、実際にヴェルサイユ条約はドイツの指導者、戦争犯罪責任者、国民のいずれに対しても懲罰的で厳しいものだった。

 

その結果、ドイツの多くの都市でデモが起こり、ドイツ国民は猛烈に反発したが、連合国は譲歩せず、「無条件に受諾しない場合は二十四時間以内にドイツに進撃する」と通告。ドイツはヴェルサイユ宮殿不本意ながら講和条約に調印した。

 

 

ヴェルサイユ条約に対するドイツの対応

 

・ヴィルヘルム二世の亡命先であるオランダは連合国の引き渡し要求を拒否。連合国は前皇帝の起訴を放棄。

 

・連合国は戦犯リストを作成しドイツに対して容疑者の引き渡しを要求したがドイツはこれを拒否。連合国側の妥協によりドイツ政府による自主裁判となる。

 

・休戦協定から二年後の一九二一年五月二十三日、ドイツのライプツィヒ最高裁判所で戦犯裁判が開始されたが、被告十二名中、六名が無罪。無罪判決に対しては群衆が拍手喝采し、審理においても無制限潜水艦作戦の間接的な正当化などがなされ、連合国にとって不満の残る内容となった。

 

・有罪判決を受けた六名もほどなくして脱走(ドイツ政府はこれを黙認)、もしくは短期の服役で釈放される。

 

まさに茶番劇!連合国の戦犯裁判構想は大失敗に終わったのであった。

 

そして、この「失敗」は、戦犯裁判構想そのものが無茶だったのではないかという発想を取り残したまま、「歴史の教訓」となってしまったのである。

 

 実はイギリスでは、一九二一年中頃から、講和条約の賠償請求が過度に懲罰的だと失望して講和会議大蔵省代表を辞したジョン・メイナード・ケインズと同様に、「カルタゴの平和」に批判的な意見が流布し始め、その関連で、戦犯処罰を忘れて対独関係を正常化する方が賢明だとの考えも有力になりつつあった。ホワイトホールも、フランスの対独強硬姿勢にはドイツ占領を延長しようとする裏の意図があるのではないかと疑っていた。かかるイギリスの観点からすれば、一九二二年一月の連合国側調査委員会の結論ころ面倒をもたらすものであって、ライプツィヒ裁判の展開は内心、歓迎すべきものであったろう。

 しかしながら、この点に関する記憶は簡単に失われ、次のような歴史の記憶だけが残ったのである。ライプツィヒ裁判は「茶番劇」と化し、第一次世界大戦後の戦犯処罰構想は有耶無耶のうちに「大失敗」してしまったのだ、と。この「歴史の教訓」こそが第二次世界大戦時の戦争犯罪計画に甚大な影響を与えることになる。その時、人々は、「ライプツィヒの茶番劇」という近い歴史の類推によって、その轍を踏んではならないと確信するであろう。

(P.48)

 

上記引用文中にあるように、すでにイギリス世論は戦犯処罰を見直す方向に動いていたし、実際そちらの方が都合がよかった。

しかし、そのことよりも、「ライプツィヒの茶番」が強烈に記憶に残ってしまったのである。

 

 

カルタゴの平和」

木村靖二ほか『詳説 世界史研究』(山川出版社,2018)から引用

イタリア半島を統一して強大化したローマは、ついで地中海西方を支配していたフェニキア人植民市カルタゴの勢力と衝突し、3回にわたるポエニ戦争(前264~前146)を起こした。第1次ポエニ戦争(前264~前241)でシチリア島征服に乗り出したローマは、これを獲得してはじめて属州 provinica とし、属州総督を送って直接統治を開始した。第2次ポエニ戦争(前218~前202)では、勢力挽回をはかったカルタゴハンニバル Hannibal(前247~前183)がアルプスを越えてイタリアに侵入し、ローマは一時危機に陥った。しかしスキピオ Scipio(前236~前183)率いるローマ軍は、逆にアフリカのカルタゴ本国を攻撃し、前202年に帰国したハンニバルをザマの戦いで破り、ローマを勝利に導いた。カルタゴは海外領土をすべて失い、多額の賠償金を課せられた。その後勢いを回復したカルタゴをローマは第3次ポエニ戦争(前149~前146)で包囲攻撃し、前146年、カルタゴは完全に破壊され滅亡した。

 

 (P.53)

 

カルタゴは強大なローマに3度にわたって戦いを挑んだ。大将軍ハンニバルの指揮で一度はローマを追い詰めるが物量差の前では成す術なし…。最後はローマによって完全に破壊されてしまう。

カルタゴの平和」とは第1次ポエニ戦争後から第2次ポエニ戦争までの直接統治期間を指すのか、第3次ポエニ戦争カルタゴが消滅したあとの世界を指すのか・・・

どちらともとれる気がするが要は、武力によって強制的に獲得された平和のことだろう…。

 

そして、ライプツィヒの茶番を繰り広げた当のドイツでは…「あの男」(Führer)が世界へ反逆するのである…

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本日の参考文献

 

佐藤優氏も薦める、高校レベルの世界史知識を習得するのに最適な山川世界史教科書!

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アメリカで30歳男性がコロナパーティに参加して死亡したという話について

こんにちは、ふじさきちひろです

 

 

私はジムでの筋トレを習慣にしていたんですが、コロナが流行りだしてからは自粛して自宅での簡易な自重トレーニングに移行していました

自宅でのトレーニングに満足していたというわけではないんですが、緊急事態宣言が終わって施設の使用制限が解除されてからも数えるほどしかジムに行っていません

 

半年ほど前までは3日に1回くらいのペースでジムに通っていて特に苦に感じたりはしなかった(生活の一部として当たり前に組み込まれている感覚だった)んですが、自粛で間隔が空いてからはジムに行くこと自体が億劫になってしまった

 

以前は当たり前のように継続出来ていたことが出来なくなる(当たり前だとは思えなくなる)のはなかなか困りますね...

やっぱり慣れの力は偉大です

 

筋トレに限らず、受験勉強とか語学とか資格の勉強とか、日々の積み重ねが物を言うような事柄(継続は力なりというのは世の中の大半の物事に当てはまるとは思いますが)は習慣化が要ですね

 

先日こんなニュースを目にしました

 

アメリカの30歳男性がコロナパーティに参加し、死亡

www.nytimes.com

 

 

 

I think I made a mistake. I thought this was a hoax, but it’s not.

(俺は間違っていた・・・。コロナウィルスはデマだと思っていた。だけど違ったんだ・・・。)

 

記事によるとこれはMethodist Hospital in San AntonioのDr. Jane Applebyによる証言。

Dr. Applebyによると、男性は死の直前、上記のセリフを担当の看護師に伝えて息絶えた

 

The Times could not independently verify Dr. Appleby’s account. On Monday, the San Antonio health department said its contact tracers did not have any information “that would confirm (or deny)” that such an event had happened there.

(しかし、Times紙はDr.Applebyの証言を確認できなかった。San Antonio health departmentもそのような事実確認はできていないという。)

 

In recent days, the hospital distributed video of Dr. Appleby describing the case, along with a press statement. She did not say when or where the party took place, how many people attended or how long afterward the man was hospitalized with Covid-19, the disease caused by the coronavirus. She said she was sharing the story to warn others, especially in Texas, where cases are surging.

(最近になって、病院はDr. Applebyによる証言ビデオを公開した。彼女はパーティの詳細や男性の入院期間については口を閉ざした。彼女は特に感染者が急増しているTexasへの警告のために語ったのだと言った。)

 

Asked about skepticism about the story, Laura Breeden, a spokeswoman for Methodist Healthcare, said, “I was not there; however, Jane Appleby is our chief medical officer. I believe what she says is true.”

(Methodist Healthcareの広報担当者、Laura BreedenはDr. Applebyの語ったエピソード対する懐疑について「私はその場にいませんでしたが、Jane Applebyは最高責任者です。私は彼女の言ったことは真実だと思います。」と語った。)

 

 

 

男性はコロナパーティに参加した後罹患、死亡したとのことだが、そもそもコロナパーティなるものが存在するのか

 

記事によると

Health experts and public officials have cast doubt over whether “covid parties” are a real phenomenon, and past reports of such parties have fallen apart or remained unconfirmed upon closer examination.

 (専門家や役人は「コロナパーティ」の存在に懐疑的だし、コロナパーティに関する過去の報道はバラバラで、詳しい調査でも以前として不明なままである。)

 

過去の報道

www.nytimes.com

 

 

 

County health officials in southeastern Washington State reported in May that they had evidence that at least two coronavirus cases were linked to one or more so-called Covid-19 parties, then quickly reversed themselves, saying that the parties may have been more innocent gatherings.

 (County health officials in southeastern Washington Stateはコロナパーティによる感染拡大の証拠を見つけたと発表しながら、そのすぐあと「やっぱり関係なかった」と撤回)

 

Meghan DeBolt, the director of community health for Walla Walla County, said county officials were learning more about the cases that have emerged from the recent social gatherings. She said they were still hearing reports of parties where infected people were present but do not have evidence that the people who became ill after the gatherings had attended out of a desire to be exposed.

The county had said in a news release on Monday that the authorities were “receiving reports of Covid-19 parties occurring in our community, where non-infected people mingle with an infected person in an effort to catch the virus.” Officials later elaborated on those reports in interviews, saying the parties were discovered after tracing the paths of people who were found to be infected after the gatherings.

 (Walla Walla Countyでは「感染者が参加するパーティの報告はあるが、参加者が感染を目的としているという証拠はない」)

 

In Alabama, reports that students were gathering to bet on who could get infected with the virus first — with the sickened winner taking home a pot of money — led to warnings from the University of Alabama to students about the parties’ risks, but state health officials were unable to confirm the events even happened.

(Alabamaでは大学生が集まって「誰が最初にコロナに罹るか?」で賭けをしようとしたらUniversity of Alabamaから警告を受けたとのこと。state health officialsによると、そのようなイベント(コロナパーティによるギャンブル)が実際に行われたという確証はないとのこと。)

 

 

「コロナウィルスに感染して免疫をつけよう」とか、「コロナウィルスなんて陰謀だ!ただの風邪だ!」と考える人たちが感染を目的として、コロナパーティを開催・参加しているという決定的な証拠はないようだ。

 

つまり

 

保健所「こちらはですね、コロナパーティ。これ本当にコロナパーティかな?いやコロナパーティじゃないかもしれへんわ。公表すんのやめとくわ。確信がないわ。コロナパーティかどうかわからへんから。」

 

ということです

 

コロナパーティの起源

 

The idea seems to have its origin in a practice from the days before there was a chickenpox vaccine.

(コロナパーティ(コロナウィルスに積極的に罹ろうとする試み)はまだchickenpox(水疱瘡)のワクチンが無かった時代の風習が影響しているのではないか。)

 

 

アメリカでは昔、水疱瘡のワクチンが確立していなかったころ、chickinpox party(水疱瘡パーティ)なるものを開催して自分の子供を故意に水疱瘡に罹らせるような風習があったのだという。

 

理由は、大人になってからよりも子供のうちに罹っておいた方がリスクが低いかららしい。

 

ここで驚愕したのがこの部分

 

The vaccine is the safest way to protect against chickenpox now that it is available, though some, including former Gov. Matt Bevin of Kentucky, still allowed their children to participate in such gatherings to contract the illness.

(ワクチンの摂取は水疱瘡に対して現在最も安全な 方法だ。しかし、ケンタッキー州元知事のMatt Bevinを含めて一定数、子供を水疱瘡パーティに参加させる親もいる)

 

現代では当然、水疱瘡はワクチンの接種によって防ぐことができる

しかし、ケンタッキー州知事Matt Bevinは9人の子供全員を「水疱瘡パーティ」に参加させて感染させたというのだ

www.nytimes.com

 

州知事曰く

They were miserable for a few days, and they all turned out fine.

(子供たちは数日間苦しんだけど、もうみんな元気になったよ)

 

 

狂気としか言いようがない

 

 

コロナパーティなんて馬鹿げてる 

 

記事はこう締めくくられている

A covid party would be “dangerous, irresponsible and potentially deadly,” said Dr. Robert Glatter, an emergency physician at Lenox Hill Hospital in Manhattan.

“Attending such a party may be a path to an early demise, if not chronic and unrelenting fatigue, chest pain, difficulty breathing and daily fevers, if you do survive,” Dr. Glatter said.

The coronavirus does not behave like the chickenpox, he said, and deliberate infection with either virus is a bad idea.

(コロナパーティは「危険かつ無責任で、死のリスクがある。そのようなパーティに参加することは死への近道であり、死なないにしても、止むことのない疲労、胸の痛み、呼吸困難、発熱に苛まれることになる。」と、Lenox Hill Hospital in Manhattanの救急外科医、Dr. Robert Glatterは言う。

「コロナウィルスは水疱瘡とは違うし、どちらにせよ自ら罹患しようとするのは愚かな考えである。」)

 

 

【まとめ】

 

・コロナパーティなるものが実在するかどうかは不明である。(「コロナパーティのらしきもの」は確認されているので実在する可能性は高いのでは?)

 

・コロナパーティに参加したことを後悔しながら死んだアメリカ人男性(30)の存在も不明瞭である。(創作もしくは脚色された話である可能性が高いのでは?)

 

・COVID-19(=新型コロナウィルス)は実在するし、危険なので感染リスクを最小限にするように努めよう(ただの風邪だとか、故意に感染して免疫獲得だというのは認知の歪みである)

 

 

 

当初の予定ではこのニュースを皮切りに反知性主義についての記事を書くつもりでしたが、New York Timesの記事が以外にも面白かったので大幅に予定を変更しました。

 

おそらくこの話は、Dr. Applebyによる創作でしょう。

ただ、アメリカでコロナパーティやそれに類似したものが行われているというのも事実だと思います。

そんな状況であれば危機感を抱かざるを得ない。Dr. Applebyのような医療従事者であれば なおさら。

なんとかして危機意識を持ってもらおうという気持ちから生まれた話だと思います。

ヒトラーの読書法 この不寛容の時代に

こんにちは。ふじさきちひろです

 

日暮吉延さんの東京裁判本をブログ記事にしていくと意気込んでからブログの更新モチベーションが高いです

 

ところで世間一般的にはこのコロナ下、どんな生活をしているんでしょうかねぇ

 

今日たまたま目に入ったバラエティ番組では「丸〇製麺、銀〇こ、か〇やetc...ファストフードチェーンはどうやってコロナ危機を乗り切ったのか!?」みたいな内容でやっていんたんですが、しれっと「コロナはもう終わった」かのような雰囲気を醸しててうんざりですよ(収録日時点では収束傾向だったんでしょうが)

 

「コロナウィルスに関しては不必要に騒ぎ立てる必要もないが、不用心になりすぎるのも危険」こう言えばいかにも正論っぽく聞こえますが、じゃあどこまでが不必要でどこまでが不用心なのかって話ですよね。

 

私としては、後遺症などの可能性も指摘されていて、「未知の部分が多いウィルス」に対しては慎重すぎるくらいが適切だと思うんですよね

そんな中で「コロナは風邪」(実際に私の知り合いで大真面目にこれを言っている人がいて驚愕した!)みたいな極論を吹聴している人の神経を疑うし、怒りさえ覚えます

 

私は相変わらず必要な時以外は自室に籠ってます

 

そもそもコロナ流行以前から不要不急の外出はしない生活スタイルだったので、つまり生活リズムに大した変化は無いのですが、それでもやはり外食の頻度は圧倒的に減りました。

 

特に、3月から現在まで居酒屋やバーの類には一度も行ってません。(以前なら1か月に数回くらいは行く機会があった)

 

だからといって特に困ることは無いのですが、人との交流がほぼ0になったことが若干気掛かりではあります。

 

家族との会話や事務的なやり取りを除けば、盟友ふじさきゆうや君とAPEXをプレイしながら嗜むDiscordでの通話が唯一の対人コミュニケーションかもしれません

 

その(喋る機会が極端に少ない)所為かは不明ですが、最近やけにイライラするんですよ

 

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(キングダム45巻)

 

最近は専ら、

 

得体のしれない怒りが脳内を渦巻く

Twitterを開いてヘイトてんこ盛りの文章を作成

「こんな文章、誰も得をしない…」と思い直してTwitterを閉じる

 

こんなことの繰り返しですよ

結構不健全だとおもいます。なのでブログの更新に励もうかなと。

 

 

今回はこの2冊

佐藤優『この不寛容の時代に ヒトラー『わが闘争』を読む』(新潮社,2020)

ティモシー・ライバック(赤根洋子訳)『ヒトラーの秘密図書館』(文藝春秋,2012)

 

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格差、ヘイト、弱者切り捨て、

疫病の蔓延、相互不理解‥‥‥。

やがて、人はこんな「思想」に

つけこまれてしまうのか、

自ら溺れてしまうのか?

緊急集中講義実録!

 

『わが闘争』から批判的に学べ!

ヒトラーは、第1次世界大戦後、不安定になった国民心理をデマゴギーによって巧みに操って権力を奪取した。新型コロナウィルスによる危機を利用して、権力を掌握する独裁者型の政治家が台頭する可能性を軽視してはならない。

知をもって毒を制す。

現代人の必修教科

(※本書帯より引用)

 

 

『この不寛容の時代に』は普段ならあまり手に取らない類の本です

時局に便乗している感がありますし、いかにも中身のない自己啓発本っぽい

 

佐藤優という著者による、わが闘争というテーマでなければ見向きもしなかったかもしれません

 

アドルフ・ヒトラーという世紀の独裁者は、第一次世界大戦後の不安定なドイツ国民を上手く焚きつけて政権を奪取した。現代でも、不安定な社会情勢を利用して独裁者が台頭してくる可能性は否めないから、歴史を反面教師として学ぼう!

という趣旨

本の内容に関しては非常に充実しているし面白かった!と言えます

 

 

ヒトラーユダヤ人を虐殺した非道な独裁者のようなイメージが強いかと思いますが、あくまでも”選挙”による投票で、”合法的”に政権の座についたというのは有名な話。

 

その背景には、第一次世界大戦によって疲弊しきった国民、ヴェルサイユ条約への反発によるナショナリズムの高まりがありました。

ナチスヴェルサイユ条約が生んだ奇形児」という言葉もあるほど

(最新の研究ではヴェルサイユ条約よりもドイツ政府の経済政策の失敗が要因として大きかったという説もあるそうです)

 

ナショナリズムとナチズムは異なる概念である

 

ナチズムとはドイツ語でNationasozialismus(略称NS=国家社会主義)ですが、その実態は人種主義であるといいます。

ヒトラーアーリア人種(アーリア人は有史以前に存在したインド=ヨーロッパ系の牧畜民族で、正確には人種名ではない)の優越という考えに囚われていて、なかでも最も純粋で偉大なゲルマン民族(=ドイツ人)が世界を統べるべきだという思想だった

だから、スウェーデン人、ノルウェー人、イギリス人であろうとアーリア人種なら歓迎するというスタンス

ゆえに、国家主義であるナショナリズムと人種主義であるナチズムはイコールではないというわけですね

 

そして、そんなナチズムに関する分かりやすい本として『ヒトラーの秘密図書館』(画像左)が挙げられています。この本はからは、ナチズムの源流が英米の優生思想にあることが読み取れます。(佐藤優は本文中で「単行本も文庫本も品切れ」だと言っているが現在はAmazonで普通に買える)

 

本書は、ヒトラーの『わが闘争』をテキストとしてナチズム、アドルフ・ヒトラーの思想を読み込んでいくのですが、その元となったヒトラーのものの見方、考え方はどいういうふうに出来上がったのかという部分が面白い。

 

ヒトラーの思想形成論

 

『わが闘争』においてヒトラーが自分自身の世界観の形成について語っている部分

 わたしはそのころ、むやみと多く、しかも徹底的に本を読んだ。わたしの仕事の暇な時間を、休みなく勉強に向けた。それによって数年でわたしは今日もなお養分をひきだしている知識に基礎をつくった。

 しかしこれだけではない。

 この時代のわたしには、世界像と世界観が形成された。それがわたしの目下の行動の固い基礎になった。かつてわたしがつくりあげたものに、それ以上学ぶべきものはなく、変更するべきものもなかった。

 逆であった。

 わたしは今日、一般にすべての創造的思想というものは、そのようなものが一般に存在するかぎり、早くも青年の時代に原則として現れるということを固く信じている。わたしは長い生活経験の結果として、非常な徹底さと用心の中においてだけ通用しうるおとなの英知と、無尽蔵の豊かさで思想と理念をぶちまき、その数が多いためすぐには消化されえない青年の創造性と、を区別する。青年の独創性は、建築材料や未来の計画を供給し、そこからより賢明なおとなが石をとりだし、切り、そして建物をたてるのである。それはいわゆるおとなの英知が、青年の独創性を窒息せしめないかぎりである。

(下線筆者)

 

佐藤優はこの部分について、比較的正しいと言っているが、私もそう思う。

 

青年期までの豊かな感受性、独創性によって築かれる思想の基盤は得難いものだ。(後に若気の至りだと言われるようなものでもやっぱり意味があると思う)

それはさながら「巨大な原石」であり、年を経て心身ともに成熟した頃に活用されるものだと。

 

裏を返せば、青年期までに思想の基盤を築かなかった人間、有り体に言えば、(広い意味での)勉強を怠った人間は年を重ねても洗練されることはないということである。

(私は勉強という言葉が嫌いだ(これまで、「勉強しろ」という言葉はうんざりするほど聞かされてきたし、それに反発してきた)が、勉強という言葉を聞いたときに中学・高校の授業における「勉強」を連想して嫌悪感を覚えるのも間違っていると思う。

意識次第でどんなものも勉強の対象になり得るし、そもそも人生自体が勉強の部分集合に過ぎないのではないかというのが私の考えです。)

 

この点で、佐藤優

インテリジェンスの世界においても、政治家を分析するときに、その政治家が大学を卒業しているなら卒業論文なり修士論文なりを探すのです。それを読めば、いまの彼や彼女の考え方の基本形がおおよそ掴める。そこから大きく外れることはないんだね。

と言っています。

 

それでは、そんなヒトラーの読書法とは如何様なものか

 

ヒトラーの読書法

 

ヒトラーは独自の読書法によって思想を獲得したと自負していました。

 

少し長いですが、『わが闘争』から引用します

 

 際限もなく多く「読む」人、一冊一冊、一字一字読む人々を、わたしは知っている。けれどもわたしはかれらを「博識」ということはできない。かれらはもちろん多量の「知識」をもっている。だがかれらの頭脳は、自分にとり入れたこの材料を分類したり、整理したりすることを知らない。 かれらには、本の中から自分にとって価値あるものと価値なきものを選別する技術が欠け、さらにあるものはいつも頭の中に保持し、あるものはできるなら無視するというように、どんな場合にも無用なやっかい物をひきずっていくことをしないという技術が、欠けている。その上、読書というのものは、それ自身目的ではなく、目的のための手段である。第一に読書は、各人の素質、能力を引き出し、骨組みを充実させるために助力すべきものである。だから読書は、各人が自己の職業に――これが原始的なパンかせぎであろうと、あるいは比較的高級な使命を満足するためであろうとまったく同じなのだが――必要な道具や資材を供給すべきである。しかし第二に、読書は一般的な世界像を媒介すべきものである。だがいずれの場合にも読書は、その時々に読んだ内容が、本の記述の順序や、あまつさえ読んだ本の順序に従って記憶にとどめられるのでなく、モザイク様の石のように、一般的世界像の中でそれらに与えらるべき地位に場所を占め、そして読者の頭の中にこの像を形成する助けとなることが必要である。そうでない場合には、覚えこんだがらくたから錯綜した混乱が生ずる。それは無価値であるだけでなく、他方においてその不幸な持ち主をうぬぼれさせる。というのは、かれは実際に大まじめに、「教養がある」と信じ、人生に関して何か理解しており、知識を持っていると信じているからである。であるのに、かれはこの種の「教養」が新たに増すにつれ、世の中の実際にますます遠ざかり、サナトリウムでか、あるいは「政治家」として議会で障害を終えるにいたるのがまれでないのである。

 そうした頭をもっているものは、決してかれの混乱した「知識」の中から、時代の要求に適合したものを引き出すことができない。というのはかれの精神的重荷は、生活の線にそって整理されておらず、かれが読んだ書物の順序にそって、またその内容がかれの頭の中に入ってきた順序にしたがって、かれにいつもかつて読んだものを正しく適用するよう警告するならば、運命はもう一度ほんとページ数とを述べなければならない。そうでない場合は、このあわれなやつは、永久に正しいものを見いだすことができないからである。しかし運命はそうしないから、この九倍もりこうなやつは、危機的なときにはいつも極度にあわて、けいれんを起こさんばかりにおなじ場所をさがし、そしてもちろん非常に確実にまちがった「処方箋」をつかむのである。

 もしそうでないなら、人々は病理学的素質のかわりに、やくざのような卑劣さをもっているのだ、と信ずる以外に、最高の地位にいるわが教養豊かな政府の英雄の政治的行為を理解することができないのである。

 しかし、正しい読書技術をもっているものは、どんな本、どんな雑誌やパンフレットを読んでも、有用であるかあるいは一般に知っておく価値があるという理由で、長く記憶すべきだと考えるすべてのものにただちに注意するだろう。こうした方法で得られたものが、あれこれの問題について、すでにどうにか頭の中にある観念像の中で意味ある場所を見いだすやいなや、それが誤りを正したり、その像の正確さや明瞭さを高めてくれるのである。いま人生に、突然なんらかの検討や解決を要する問題があるとするならば、こういう方法で書物を読んでいるのなら、ただちに既存の観念像の規準をとらえ、そこからこの問題に関係している過去十年間に集められた個々に役立つものすべてを引き出し、問題を解明したり、解決したりするまで検討したり、新しい検分をしたりするために、知性を提供するのである。

 読書は、その時にのみ意義と目的をもつのである。

 たとえば、そうした方法で必要な手がかりをかれの知性にに提供しない演説者は、その見解がいかに正しく、また現実にかなっていても、抗弁のさいにむりやりに自分の見解を弁護しうるほどの立場には決して立ちえないのである。すべての討論のさいに、記憶が侮辱的にかれを見すてる。かれは、自分自身で主張していることを証明する根拠も、反対者を反駁する根拠も見いだせないのだ。それも演説者の場合のように、なにはさておきただかれ個人の恥をさらすのであるかぎりは、まだ我慢しうる。だが、運命がそのように博識家ではあるが、無能力者を国家の指導者に任命したならば、さらに悪くなる。

 わたしは若いときからずっと、正しく読むことに努力してきた。それと同時にさいわいにも記憶力や理解力がよかった。

 

また、『ヒトラーの秘密図書館』ではヒトラーの読書法について

 

ヒトラーは読書というプロセスを、自分が元々抱いている観念という「モザイク」を完成させるための「石」を集めるプロセスに例えている。まず目次や索引を調べ、それから「使える」情報を探して選んだ章を読む、と彼は述べている。時にはあらかじめ何を探すかを決めるために、まず結論を先に読むこともある。読書する際には、自分の個人的必要や一般論的な知識のために有益な情報を「瞬時に」見分ける技術を磨く必要がある、と彼は言う。

「このような方法で得た知識が、あれやこれやの問題に関してすでに自分の頭の中に何らかの形で存在している観念と正しく統合されると、それは修正的あるいは補完的な働きをする。すなわち、自分が元から抱いていた観念の正しさ、あるいは明快さを高める働きをする」とヒトラーは書いている。(…)この読書法によって、ヒトラーは、戦車の製造から舞台作品まで無数の問題に関して膨大な量の情報を記憶し、事実上即座に思い出すことができた。フリードリヒ・シラーとジョージ・バーナード・ショーの作品をヒトラーが比較するのを聞いたゲッベルスはその晩帰宅して日記に、「この男は天才だ」と書き付けた。

 

 

ヒトラーのこうした読書法について佐藤優

 

読書のポイントは何より記憶力なんだと。自分にとって役立つことを記憶し、不必要なことはさっさと忘れて、利用すべきはすぐに利用して、誰々はこう言っているとか、その説はもう否定されたとか、その場でハッタリをかますことができる、それがおれの読書法の神髄だと自慢しているわけです

 

と述べています。

 

たしかに、ヒトラーの記憶力には非凡なものがあり、それを十分に活用することができていたのだと推察できますが、単純に記憶力が良いだけではヒトラーが言うところの「博識家」止まりでしょう。

 

要するに、記憶や知識はただ単に保管されているだけではなく、自分自身の思想や哲学と有機的に関わり、必要なときに必要なだけ使うことができなければ意味が無いということでしょう。

 

例えば、HDDやSSDなどの記憶装置には人間の脳よりもはるかに多く、正確に情報を保持することができます。ファイル名やフォルダ名で検索すれば必要なときに引っ張ってくることもできる。

 

しかし、抽象的なイメージから必要な情報を引き出すということはできませんよね。

 

たとえば、本書の主旨は「第一次世界大戦後の不安定な社会情勢のなかから台頭したナチスアドルフ・ヒトラーの思想を学ぶことで、同じように社会不安が高まりつつある現代での教訓としよう」ということですが、現代の社会情勢を俯瞰したときに、第一次世界大戦後のドイツ社会を結び付けて考えることは単純な記憶装置には無理な芸当ですよね。

 

「頭の良さとは何か?」と考えたとき、様々な議論や定義があると思いますが、定番の意見として「抽象的思考力」だというものがあります。

これはまさに先に挙げた例のように、具体的な事例からいかに抽象(本質)を見いだして、応用することができるかというこという能力のことです。

 

読書をしたときに、ただ単に知識として記憶するのではなく、それが自分にどうかかわってくるのか、どういった場面で応用可能なのかを考え整理することが重要なのだと、知識と知性は別物なのだとヒトラーは言っているわけです。

 

 

私はヒトラーの読書法を知ったとき、大変共感しましたし、実際、私が読書をするときも彼と同じ方法をとっていたので親近感が湧きましたが、この読書法には危うい面があることも事実です。

 

「すなわち、自分が元から抱いていた観念の正しさ、あるいは明快さを高める働きをする」

 

という部分。

読書を重ねた結果、知らず知らずのうちに「歪で醜悪な思想」が出来上がることもあるわけです。(むしろ歪むことの方が多いと思います。)

だから、やっぱり独学には限界があり、学びを深めるためにはきちんとした教育を受ける必要があるということですね。

森本あんり『反知性主義アメリカが生んだ「熱病」の正体―』(新潮社,2015)では、知性には「ふりかえり」が欠如してはならないと述べています。

(これも機会があれば記事にしたい)

 

それでは。

 

序章 『東京裁判の国際関係 国際政治における権力と規範』

こんにちは、ふじさきちひろです

 

 

まずはこちらをご覧ください

漫画『こち亀』からの引用です

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こち亀 73巻 P.29)

 

部長の代行として両津が子供たちに剣道を教えることになったというシーンです

 

「それは部長のやり方だ!わしにはわしのやり方がある 部長のたわ言などすべて忘れろ!」

「わしの流儀は勝つ事だ!何がなんでも勝たねばいかん! わかったか!」

 

爽快なセリフだったので載せました

 

私自身、一般常識的、前例踏襲的思考…外面や体裁、周囲の反応などを意識した立ち振る舞いの誘惑から逃れられないことが少なくないです

 

ふと気が付くと、「この場合、最も尤もらしい選択は?」という思考に陥っている自分がいる

 

やはり、マイノリティでありたくない、異端だと思われたくない、外れ値になりたくないといった願望があるのでしょう

 

一方で、そのような「無難な選択」に辟易もしている

 

だから実際、私の理想とするところはこの両津のようなマインドなのです

 

もちろん、その基礎となるのは、自己批判を欠いた狂信的な思想ではなく、蓄積された経験・知識、弛まぬ批判と検討によって紡ぎだされた自分自身の哲学になりますが。

 

東京裁判の国際関係 国際政治における権力と規範』

序章

 

序章について書く前に、本書の簡易版(著者は本書と同じ日暮吉延)といえる新書があるので紹介します。

 東京裁判問題について俯瞰したいという場合にはこちらが便利だと思います。

 

序章 問題の所在

 

 東京裁判(正式名称:極東国際軍事裁判 The International Military Tribunal for the Far East)は第二次世界大戦後、大日本帝国戦争犯罪者を裁くために開かれた。

 その議論については歴史的に、〈肯定論〉および〈否定論〉という極端な理論のいずれかに帰着し、平行線をたどってきた。

肯定論

 

 侵略や戦争犯罪を行った日本を、連合国が「道義的立場」から裁判という「文明」的な方法によって懲罰したという見方。「文明の裁き」論といわれる。(国際裁判における原告(連合国)は戦勝国というよりも「文明」だとされたことに由来する。)

 これは同時に、日本の侵略を打ち破り、犠牲者を最小化するには、対日無差別爆撃や原爆投下が不可避であったという、つまり、連合国(アメリカ)の非人道的行為を正当化するという側面も持っている。

 

否定論

 戦争の計画、開始等について個人を処罰するのは、文明諸国の法律が禁じる遡及法の適用にほかならず(法律には不遡及の原則があり、特に刑罰には事後法の禁止が厳格に規定されている)、また連合国側の行為が不問に付されるというのも不公平である、結局、国際軍事裁判は事後法による戦勝国の政治的報復、「勝者の裁き」にすぎないとする見方。

 (PP.12-14)

 

上記が肯定論と否定論の要旨だが、筆者は、「特に日本においては、政治的イデオロギー、善悪の判断基準、感情論等の影響が根強いため、〈肯定論〉と〈否定論〉は不毛な対立を繰り返している」と述べている

また、フランスの歴史家アレクシス・ド・トクヴィルの言葉

「人間は自身の敵から真理を受け取ろうとはしない」

を引用して、この対立にこそ相応しいとしている。

 

結局、感情的に対立してしまったら理性による話し合いは難しいというのが現実なんでしょうね。逆もまた然りで、感情的に陶酔してしまえば理性など無視できると。(〇〇信者といわれるような人たちがその例)

 

東京裁判に関する議論は肯定論、否定論ともに、非学術的なものも含めて、1940年代から蓄積されてきたが、先行研究の多くについて筆者は、

 

・一次資料に基づいた基本的な事実関係への見落としが多数ある点

・肯定論、否定論のの対立軸が強調されすぎていた点

・国際政治の文脈における検討が不十分

 

で問題があるとしている。

 

そこで筆者は、東京裁判が『勝者の裁き』であることは自明の理である。」としながらも、

 

・日本側の否定論は、自国の過去の正当化や、ナショナリズムへの寄与、日本が実際に負うべき責任を無視し、敗者のルサンチマンに基づく陰謀史観に陥る危険性がある。

 

・肯定論においても、戦前期日本への批判のために利用している節がある。現実の状況や限界を無視したナイーヴな見方となる傾向が強い。

 

と両論の欠点を指摘、

 

「文明の裁き」論と「勝者の裁き」論を客観的に見極め、国際政治の〈規範〉と〈権力〉の関係に留意しながら、具体的事例の検証によって東京裁判外交政策として評価することが本書の課題であるとしている。

 

序章終わり

 

 

東京裁判についてどのようなイメージを持っているだろうか。

 

私は漠然と

 

大日本帝国・・・望まぬ戦争に自国民を追いやり、世界侵略を目論んだ悪の国家

 

東京裁判・・・大日本帝国を支配していた悪の軍人を裁く正義の裁判

 

というようなイメージをもっていた。

 

しかし、日本の近現代史を読み進め、連合国(アメリカ)=正義、枢軸国(日本)=悪というような単純な二項対立ではないと理解すると同時に、日本(大日本帝国)への肯定的(同情的)な感情も持つようになった。

 

無論、歴史修正主義ネトウヨ的思想に染まったわけではない。

 

筆者(=日暮吉延)が指摘するように、第二次世界大戦・太平洋戦争関連の議論は総じてイデオロギー色が濃すぎるきらいがある。

 

ゆえにひとまず、本書で東京裁判についての客観的理解が得られたら良いと思う。

日暮吉延『東京裁判の国際関係 国際政治における権力と規範』(木鐸社,2002)と回線トラブル

久しぶりの更新です

まずは昨日起こったネット回線の不具合について

私のメインのデスクトップは1Gbpsの光回線で、LANケーブル這わせて優先で繋いでいるのでそこそこの速度が出ているんですよね。

 

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計測サイト↓

www.speedtest.net

 

普段はもちろん回線速度に不満を感じることは無いし、昨日も特に何かあったわけでは無かったのですが偶然、異変に気が付きました。

 

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タスクマネージャーを開いたときのこの画面で「ネットワーク」の使用率が70%くらいに達していたんですね

 

これはほぼあり得ないことで、理論値が1Gbpsだから、その70%といったら700Mbpsほどの通信をしていることになる

 

当然、回線に負担のかかるような作業は何もしていなかったのでとりあえずネットワークと共有センターを開いてみることに。

 

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そうしたら、「速度」の項目(赤で囲ってある部分)が10Mbpsになっていた!(画像は正常な状態のもの)

回線速度が普段の100分の1になっている状態(無論、これはリンク速度ですが。)

ちなみにこのとき、speedtestでの実測値も5Mbps程度だったので実際に速度は100分の1程度に低下していました。

 

とりあえず、 [リンク速度 10Mbps] のようなワードでググった結果、同じような症状への対処法がいくつか見つかりました。

 

ネットワークアダプタのドライバ更新

ネットワークアダプタの設定で「省電力イーサネット」を無効化

ネットワークアダプタの設定で「システム無動作時の節電機能」を無効化

ネットワークアダプタの設定で「速度とデュプレックス」の項目を「1Gbp全二重通信」に変更

ルーターを再起動

・LANケーブルの抜き挿し

・LANケーブルの交換

マザーボードの交換

 

マザーボードの交換は最終手段として、上記のどの方法も効果なしでした。

(「速度とデュプレックス」に関しては、「1Gbp全二重通信」に変更するとネットワークアダプタ―が機能しなくなりました。)

 

どうしようもないのでUSBタイプのLANアダプターでも買って検証しようかと思いましたが、念のため、ルーター側の故障もチェックすることに。

 

結果、ルーターのLANポートのランプが点灯していないことを発見(1Gbpsでリンクされている場合はランプが点灯する)

 

別のLANポートに挿し変えたらランプ点灯、PC側でも速度が正常に戻りました。

 

原因はわかりませんが、ルーターのLANポートが故障していたようです。

以上。

 

 

本題は、昨年末に購入した

東京裁判の国際関係 国際政治における権力と規範』日暮吉延

について。

 

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私は、比較的状態の良いもの(使用感無く、スリップも挟まったまま)をちょうど¥15,000で購入しましたが、今見るとやや価格が上がっているようですね

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定価が¥10,000なので少し悩みましたが、「本との出会いは一期一会」

という信条に忠実に行動しました。

 

読む量よりも買う量の方が圧倒的に多い!(実際、私の本棚には読み終わった本の5倍くらいの量の「積み本」があります。)

 

2020年も折り返し地点を過ぎた今、そろそろこいつを読み始めようということですが、”専門書寄りのまじめな本”であり、分量もそこそこあるので、内容理解とモチベーション維持のため、今後読み進めるごとにかんたんなまとめ記事を作っていこうかと思います。

 

今回はその宣言です。(本当は序章についてくらいは書こうと思っていたけれど、思いの外疲れたので次回に)

 

↓目次

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1章ごとに記事を書く予定です

 

 

 

ちなみに、画像の書見台豊岡クラフト↓のもの

www.toyocraft.com

 

非常に質が良い!

 

それでは。